手相で「太陽線」という線がある。
その太陽線、専門的に言うといろんなパターンがあるが、 一般的には薬指の下エリアにある「縦の線」を指す。
この太陽線、テレビなどで「金運線」として取り上げられることがある。
この線がはっきりしていたり長かったりすると、金運が良い、と。
今日は、これに異を唱えたい。
といって、決して「太陽線≒金運を表す」というのが全くもって間違っていると言いたいわけではないが、
「手相はそんな単純なものではない」というのを少しでも知ってもらえればと思う。
じゃあ、この太陽線が表しているものは何なのか。
それは大きく言うと(実際はまだ他にもあるのだが)
「人生の充実度」と「自己実現度」
である。
昔の鑑定経験で、こんなエピソードを覚えている。
10年ほど前になるが、広島に今も続く「手相バー」(知人男性に誘われて二人で初めた店で、手前味噌ながら広島では伝説的な店になった)で従業員をしながら「10分鑑定」をしていた頃に、時々来られていたある男性のお客様がいた。
確か、当時40代半ばの方だったと思う。
その男性は「ある業種の会社」を経営されていて、その事業の今後だったり、恋愛関係だったりについてを手相で観させていただいていた。
その方の経営されていた会社の業種が何なのかは詳しくは伏せるが、「儲かる」というのと「新規参入が難しい」というのが、その業界のイメージではある。
当時聞いた正確な数字は忘れてしまったが、会社の年商は億単位ぐらいだったかと記憶している。
そしてここで今日のテーマの話になるのだが、
その男性の「太陽線」は、驚くほど「短くて弱い」ものだった。
線がまったく無いわけではないが、パッと見ると「ほぼ見えない」レベルである。
それだけの額を稼がれていて、借り入れもそれなりにはありつつ十分に返済の目処はついていて、確かご自身の手取りも決して少なくはなかったにも関わらず、「金運線」であるはずの太陽線がものすごく弱々しい。
実はこのことについて、その男性もご自分で理解というか納得されていた。
というのは、10分鑑定という短い時間(といってだいたいオーバーしていたが)の中で当時の自分なりに、
太陽線という線は一般的には「金運線」と言われるということ、そして実際にはその意味だけではない、というのを説明させて頂くと、
「なるほどね、分かるわ」
とおっしゃる。
どういうことなのかお話を聞いてみると、
その方は(ご自身いわく)かなりの働き者で、時間的にも量的にもものすごく仕事をされているらしく、「自分がいないと会社は回らないし、人の管理も疎かになる」と。
そして実は、その男性が描かれている人生や将来は、
「もっと売上を大きくしながら『自分がいなくても会社が回りつつ、お金が入ってくる仕組み』を作り、会社を後任に任せたあとは悠々自適な暮らしをする」
というものだとのこと。
要は、「自由な生活」というのが、その男性にとっての理想なのだ。
遊ぶも、旅をするも、人と会うも、また次に何かをするのも、
「思う時に思うままに、思うことができる生活」を内心では求められていた。
求められていた、というか、その生活の実現に向けての具体的な計画をすでに立てられていた。(ちなみに手相でも『それが叶う年齢』は読めていて、それをお伝えするとご本人の想定と完全に一致していたのもあり自分の腕前を信頼して下さっていた)
そう、
つまりその男性の太陽線が薄かったのは、
「人並み以上の収入はあっても、思う暮らしができていない」
からだった。
実際ご本人も、こんなふうにおっしゃっていた。
「たしかに使えるお金もそれなりにあるし、こうやって飲みにも来れたりはするけど、今の生活は正直全然楽しくないよ。決して、充実してるとは言えない。だから(太陽線が)薄いんだね」
そして男性は、確かさらにこんな夢も語られていた。
「今の仕事は『お客様に喜んでもらえている』という実感は正直感じにくい。
それもあるんだけど、いや、それとは関係なくても、
お金的にも時間的にも自由になれたら、資産を投資に回してさらに大きく増やして、
いずれは福祉だったり、社会に貢献できて人に喜ばれる何かがしたいんだ」
と。
10年ほど前のその当時から数えて、男性が「理想の生活」を得られると読めたのが手相的に何年後だったか正確にはさすがに忘れてしまったが、
おぼろげな記憶が確かなら、当時その方が40半ばで、50代頭ごろからが、「理想の生活ができている」予測だった気がする。
その後実際その通りになっているなら、おそらく今ごろ男性は「悠々自適」な生活を叶えられているはずだ。
彼の手には今、はっきり見える太陽線が出ているだろうか。
そして予想年数からの計算上はもう少し先になるかもしれないが、いずれ「人に喜ばれる」事業を興されて、
その太陽線がますますくっきりと「良い感じ」になることを、お顔と語り口調を懐かしく思い出しながら勝手にうっすらと願っている。